資本主義の中で、私たちは「楽しさ」を失っていないだろうか
久しぶりに、少し立ち止まって考えてみた。
私たちは資本主義社会の中で生きている。
サービスを提供し、その対価としてお金を受け取る。
それ自体は、極めて合理的で、否定されるものではない。
ただ、ふと気づいた。
資本主義であるがゆえに、楽しさが奪われている場面があるのではないかと。
本来、サービスは「笑顔」で成立していたのでは?
もし、自分が提供したサービスによって相手が笑顔になったとしたら。
感謝され、「助かった」と言われたとしたら。
それだけで、本来はサービスとして成立していたはず。
実際、私たちの原体験を思い返せば、
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誰かの役に立てた
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喜ばれた
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認められた
こうした感情こそが、働く動機・動く動機になっていた。
ところが資本主義は、それらすべてを「いくらか」という一つの尺度に置き換えている。
その結果、笑顔ややりがい、楽しさは
「あると望ましいが、なくても成立するもの」
として扱われがちになっているのでは。
お金は価値そのものではない
誤解のないように言えば、お金を否定したいわけではない。
お金は重要。生活を支え、社会を回すために不可欠。
ただ、お金は価値そのものではなく、価値を翻訳する装置にすぎない。
翻訳できる価値もあれば、翻訳しきれない価値もある。
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働く意味
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誰かの役に立っているという実感
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自分の仕事に誇りを持てる感覚
これらは数値化しにくいが、確実に人の人生を動かしている。
社労士の仕事は「意味」を扱う仕事だと思っている
社会保険労務士の仕事は、
制度を説明することでも、書類を整えることでもある。
しかし現場では、
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社長の不安
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従業員の不満
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職場に漂う言語化されていない違和感
そうした「目に見えないもの」と向き合う時間の方が長い。
制度は手段であって、目的ではない。
目的は、人が納得して働ける状態をつくること。
制度が整ったとき、誰かの表情が少し柔らいだ瞬間を見ることがある。
そのとき、私はこの仕事の本質を感じている。
資本の軸を、少しだけずらしてみる
資本主義をやめることはできないが、軸を一本足し算することはできる。
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お金という資本
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信頼という資本
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意味や生きがいという資本
これらを同時に循環させる社会。
働くことが「消耗」ではなく
「納得」や「誇り」につながる社会。
それは、決して理想論ではなく
実際に、そうした職場は存在している。
最後に
資本主義は、本来、人がより自由に、より豊かに生きるための道具だったはず。
もしその道具によって、楽しさや生きがいが削られているとしたら、
それは制度ではなく、使い方の問題なのだと思う。
笑顔は、換金できなくてもいい。
ただ、循環させることはできる。
循環により、働く意義が伝達できればそれは労働力を確保することにもなる。
そんな視点を持ちながら、
これからも私は、現場に向き合っていきたいです。。。
